岩手スポーツマガジンStandard(スタンダード)岩手をひとつにするのは、スポーツだ〜After 3.11『高田高校野球物語〜前編〜』〜

index.gif

高田高校野球物語top.jpg

[6/26更新] 高田高校野球部物語 輝ける夏をもう一度。〜前編〜

After3.11目次>>

 スタンダード2012年6月25日号に掲載された「高田高校野球部物語」の完全版。誌面では紹介できなかったエピソードも加えて、ご紹介させていただきます。

震災前にあった陸前高田が光り輝いた時間。

 岩手県立高田高校。昨年の東日本大震災の大津波に、長く愛されてきた校舎は飲み込まれた。3階まで浸水した校舎は窓ガラスが割れ、体育館は骨組みがむき出しになり以前の姿を想像できないほどに形を変えた。賑やかな生徒の声が消えた校舎の前には、ひっそりと一つの石碑が建っている。その石碑には昭和の大作詞家・阿久悠が高田高校野球部への思いを込めた一遍の詩が刻まれている。

「初陣高田高の/夢にまで見た甲子園は/ユニホームを重くする雨と/足にからみつく泥と/白く煙るスコアボードと/そして/あと一回を残した無念と/挫けなかった心の自負と/でもやっぱり/甲子園はそこにあったという思いと/多くのものをしみこませて終わった/高田高の諸君/きみたちは/甲子園に一イニングの貸しがある/そして/青空と太陽の貸しもある」

 1988年、甲子園初出場を果たした高田高校は、兵庫県代表の滝川第二高との初戦に臨んだ。試合前から降り始めていた雨は徐々に強さを増し、8回裏の攻撃の途中で審判がコールドゲームを告げる。残っていたはずの最後の1回は雨によってかき消され、試合終了のサイレンも鳴らない。3-9で高田高校が敗北。初めての甲子園は唐突に終わった。

 傍目から見れば、これほど不運な結末はないだろう。しかし、今の陸前高田の人々にとって、この甲子園出場は震災を経験する前の幸せな記憶として残っている。未曽有の被害にさらされた町に、燦々と光が注いだ時間が確かにあったのだ。今から綴るのはその時間を高田高校で過ごした元野球少年が語ってくれた輝ける日々の物語だ。

1に付く写真.jpg(写真:高田高校の校舎前に建つ石碑。昭和の大作詞家・阿久悠の詩が刻まれている。)

陸前高田から甲子園へ。大人の熱い思いに少年たちが応えた。

 村上知幸さん(42)は陸前高田市役所に勤めている。その一方で、震災前までは市役所の野球部に所属し、現在は少年野球の監督として指導に当たるなど、野球とは切っても切れない人生を歩んできた野球人でもある。さらにうらやましいことに、村上さんは高田高校の野球部員として甲子園出場している。あれから20年以上の時が流れたが、あの輝ける日々のことはありありと覚えていると言う。

 物語のはじまりは、1984年の春のことだ。大船渡高校が春のセンバツ大会に出場。あれよあれよと勝ち進み、ついにはベスト4入りを果たす。当時の岩手の学校と言えば、正直に言えばレベルはさほど高くない。甲子園でも1回戦負けが当たり前だっただけに全国の強豪を倒し、勝ち上がっていった大船渡高校の姿は爽快だった。このニュースに色めき立ったのは、少年たちよりも、むしろ野球好きな大人たちだったと言う。甲子園で旋風を巻き起こした大船渡高校は地元に育った選手たちだけで構成されたチームだった。高田は野球どころで知られた土地柄。能力の高い選手は揃っている。選手の流出さえなければ、陸前高田からでも甲子園にも行けるんじゃないかと考えたのだろう。「気仙地区の目立つ選手は県内の強豪校に流れてしまうんです。高田高のOB会の人たちが、めぼしい選手の家を訪ねて説得していたんです。この町から甲子園を目指そうなんて言って」大人たちの熱意にほだされた野球少年たちは、こぞって高田高校に進学する。村上少年もその中の一人だった。

そして入学した当初のエピソードを教えてくれた。「僕は1年B組で、同じクラスには野球部が8人いたんです。担任の先生が野球部の生徒を指して“この子たちが我が校を甲子園に連れて行ってくれるんだ”なんて話すんですよ。期待されていることはわかっていたし、入学当初から甲子園出場は意識していましたね」村上さんの上の学年は部員わずか6名。地元の選手たちが県内の強豪へ流出してしまった学年であり、村上さんたちは下級生のうちから経験を積むことができた。これも幸運だったと振り返る。選手一人ひとりの高い「能力」と実践経験を蓄えられる「環境」。この二つのギアががっちり噛み合い、甲子園への道を力強く歩み始めていた。

2に付く写真.JPG
(写真:東日本大震災の津波は、校舎をまるごと飲み込んだ。ガラスは割れ、写真右側の体育館は原型をとどめていない。)

沿道を埋め尽くす人だかり。陸前高田が笑顔で包まれた日。

 元々能力に優れる選手たちは徐々に頭角を現し始める。村上さんが2年生の秋、県大会で優勝を果たした。コマを進めた東北大会ではあと一歩及ばすセンバツ出場は逃したものの、甲子園の出場はにわかに現実味を帯びてきた。そしてひと冬を越えて春季大会が始まる。夏を占う前哨戦で、高田は大きくつまずいてしまう。当時の気仙(現沿岸南)地区予選は6校で争い、県大会に出場できるのはたった1校(現在は7校で代表校3校)。安定した強さを持つ大船渡、中学時代に県大会で優勝したチームがそのまま進学した大船渡工(現大船渡東)などがひしめく激戦区だった。「気仙地区予選の地区代表決定戦で、大船渡工業に0-1で負けて、春の県大会にさえ出場できなかったんですよ。その時に4番で出場していたのが自分です。何度もチャンスを潰して、凡打を繰り返して、大ブレーキでした。その時のことは今でも語り草ですよ」と村上さんは笑う。そして迎えた夏の予選、春の敗退にも、チームに悲壮感はさほどなかったと言う。実績も経験も十分に積んできた自負がある。普段通りの力をちゃんと出せれば、負けない自信があった。ノーシードから出場した高田は、次々と撃破していった。「組み合わせの山には、第1シードの宮古高校が入っていたんです。春の優勝校と前年秋の優勝校である自分たちが戦う。この事実上の決勝戦を3-0で下した。続く一関商工(現一関学院)、黒沢尻北に勝って勢いが本物になりました。特に印象に残っているのは黒沢尻北との試合。試合途中までリードされていて、延長戦までもつれこんで何とかサヨナラ勝ちでした。そして準決勝で当たったのは、因縁の大船渡工業。最後は追い上げられましたが何とか4-3で勝ちました。大船渡工業に勝ったことで、甲子園出場をかなり意識しましたね。決勝の相手は釜石工業(現釜石商工)でした」。4-1で釜石工業を下し、高田高校初の甲子園出場を掴み取る。青空の下に並ぶ青い帽子の選手たち。球場に高田高校の校歌が響き渡った。

 この年の大会のベスト4の顔ぶれは、高田、大船渡工業、釜石工業、水沢。私立勢が1校も入っていないばかりか、4校中3校が三陸の学校。優勝した高田高校だけでなく、今回の震災で大きなダメージを負った海の町が野球で光り輝いた年だった。

 優勝を決めた後、高田高校野球部員たちは一路陸前高田へ。そこからがすごかった。村上さんの言葉からその光景が頭に浮かぶ。

「峠を下ってくると、住田町のあたりでも沿道に人が出ていて、手を振ってくれた。(自分たちの試合を)テレビで見ててくれたのかなと思ったんです。高田の町に入ってからはもっとすごいことになっていた。高田の駅前はすごい人だかりになっていました。僕たちはバスを降りて、自衛隊のジープに乗り換えた。日本シリーズの優勝パレードみたいでしたね。陸前高田の七夕祭りより人が出ていたと思います」町の大人たちが夢を見て、少年たちが挑んだ。野球の神様が仕組んだシナリオに導かれるように、“甲子園三年計画”は実を結ぶ。そして、高田高校が甲子園に出場したのは、これが最初で最後である。「その後にも甲子園に出るチャンスはあったんですよ。実際、甲子園に出た僕らの代よりも強いと言われるチームはあった。ただいつも勝負どころで一関商工と対戦して負けてしまう。うちに勝った一関商工が甲子園に出場していたので、力は十分にあったと思います。平成のひとケタは、公立では高田が、一番勝率がいいんじゃないですか」そしてこんな言葉を続ける。「僕は甲子園では、コーチャーで試合には出ていないんです。春は4番だったのに、夏ではコーチャー。それはうちの選手層が分厚かったことの証拠だと思います」当時の監督・三浦崇(故人)は調子が良い選手を使うと常々口にしていた。通常4番を打つ選手の調子が悪ければ、6番に下げるというような方法が一般的。それを控えに回してしまうほど、当時の高田は選手が充実していた。村上さんの言葉には悔しさとともに、誇りも感じられる。それは、自分はそれほど強いチームで野球をしていたんだという誇りだ。

キャプ3に付く写真【追加】.JPG
(写真:陸前高田駅は、駅舎も津波に流された。甲子園出場を決めた高田高校の選手たちは、ここからパレードをスタートした。)

今もつづく、1988年の夏。

この高田高校と釜石工業の決勝戦にはつづきがある。「数年前から、あの当時のメンバーが集まって、試合をしたり飲み会をするようになったんです。今、試合をやると、釜石工業にコテンパンにやられるんですけどね」と笑う。当時戦った監督同士が会合で偶然出会ったことで両チームの交流が復活した。村上さんは、濃密な時間を過ごした仲間の絆こそが、高校野球の最大の喜びと語り、そして少年野球をしている息子さんへの思いを寄せる。「部室で好きな女の子の話をしたり、近くのお店で、みんなで食べて帰ったり。そういう一つ一つが大切な思い出。高校野球はやっぱり特別なんですよ。だからこそ、子供にも高校3年まで野球をやってほしいんですよね。今でも野球部の2つ上の先輩は怖いですしね」高校時代の話をする村上さんは本当に楽しそうだった。

3に付く写真.JPG
(写真:現在は旧大船渡農業高校の校舎を使い、高田高校は授業が再開されている。)

8Dw93C782CC82B288C493E02.gif
フォト_黒.png
93C78ED283A839383P815B83g2.gif