岩手スポーツマガジンStandard(スタンダード)岩手をひとつにするのは、スポーツだ〜After 3.11『陸前高田市_熊谷家』 〜

index.gif

高田熊谷TOP.png

[8/23更新]津波は「スポーツをする環境」までも奪った 陸前高田では深刻なグラウンド不足が今なお続いている 子供の夢の上で暮らしている

After3.11目次>>

 陸前高田市の熊谷栄規さん。息子さんは、小学6年生と中学3年生で、ともに野球をやっている。東日本大震災が町を襲った“あの日”の前までは、二人の野球小僧の試合を追いかけるお父さん。しかし、今は家を失い、仕事までも失った。それでも大きな声で笑い、立ち上がる気力を失っていない。熊谷栄規さんは本当に強い人だ。

3月11日、午後2時46分 陸前高田のど真ん中

 熊谷さんは、陸前高田の町の真ん中で“その瞬間”を迎えた。「私は居酒屋をやっていたのですが、その時は仕込みの真っ最中。地震とともに店中のジョッキや皿がガチャンガチャン落ちました。とりあえずケータイ電話だけを持って店の外に出ました」その後に訪れる大津波のことは考えもしなかった。それよりもその日の夜の予約をどう断るかを考えていたと言う。大きな揺れの後も、町の中に慌ただしく避難する様子は見られなかったと熊谷さんは振り返った。海から約1.5キロ離れた自宅付近は、昭和の二度わたる津波もここまでは到達していないという過信もあった。津波が来たとしても、床下程度。そんな思いから、家の中を片付けている人がいたり、立話をしている人もいた。熊谷さんはお店から目と鼻の先にある自宅へ、奥さんの安否を確認するために戻ってきていた。そして、地震発生から数分を過ぎた頃から事態が急変していく。大津波警報が町の中に響き、緊迫感のある声が住民に避難を呼びかける。消防団員でもある熊谷さんは屯所に走り、その後は避難誘導に回ったという。地震発生後に何度も繰り返された警報。そして最後の警報は「津波が堤防を越えました。避難してく…」絶叫に近いその声は、途中で途切れた。

 奥さんの熊谷和江さんは、異常を感じて、近くの山へ避難を始めていた。「ザーという音が聞こえてきて、振り返ると何も見えなくなっていました。土煙なのか、波なのか、とにかく一面真っ白で何も見えなくなった。あわてて石段を登りました」避難誘導に回っていた熊谷さんは、津波が来る直前まで、町の中で大声を上げて走り回っていた。道を歩く人に必死に避難を呼びかける。「逃げろ、もう近くまで来てる!」スーパーマーケットMAIYA近くを走行中に、津波が押し寄せてきた。慌てて

車を降りて、MAIYAの非常階段を登っているときに、目の前で重い消防車両が押し流されていく。一瞬の判断が生死を分けるものとなった。屋上に登ると、町のすべてが水の中に沈んでいたという。その後も何度にもわたり津波が町に寄せる。とてもそこから動ける状況にはなく、一晩をその屋上で明かすことになった。そして夜が明けると、徐々に町の様子が浮かび上がる。あるはずのものがそこにはなく、以前の面影を失った町が広がっていた。「なにや、これ…」それ以外の言葉が見つからなかった。被害の大きかった岩手の中でも、とりわけその被害が大きかった陸前高田の町。幸いにして、熊谷さんの家族は、二人の息子さんを含めた全員が難を逃れ、再び生きて出会うことができた。小さな奇跡が重なった結果だった。

IMG_6065.jpg
(写真:津波から1週間経った陸前高田の町。改修工事が終わり、引き渡しの段階にあった陸前高田松原第一市営球場も津波で壊滅的な被害を受けた。)

“生”と“死”が隣り合った場所で

【写真2】IMG_6088.jpg
(写真:名勝・高田松原も失われた。町の上には、報道のヘリコプターがひっきりなしに飛んでいた。)

 それからの記憶は、ただひたすら歩いていることだと和江さんは言う。ライフラインが遮断されたこの町では、当然のごとく、ケータイ電話も使えない状況だった。どれだけケータイに頼っていたのかということを実感する。町で何が起きているのかを知るために、そして、知り合いの安否の確認を行うためには歩いて回るしか方法がない。「ほんとに情報がなかった。子供を連れて毎日歩いていましたね。近所を回って、避難所を回って、貼り紙を見て回る。そんなことを続けていました」一方で夫の熊谷さんは消防団の一員として、行方不明者の捜索、遺体の搬送を行っていたという。毎日を“生きること”に精一杯の日々、そして、悲しい“死”と直面する日々。陸前高田にはその両方があった。

野球グラウンドの上に建てられた仮設住宅

 災害から日が経った3月の終わり。熊谷さんは小学校の息子さんのチームを集めて、練習を始ようと思った時期があった。「子供たちの元気が復興の足がかりになるんだと。そう思ったんだけど、やっぱりできなかった。うちの子のチームは6年生が9人のチーム。その中でさえ、お父さんやお母さんを亡くした子がいたんです。その気持ちを考えると、野球はできないと思った」結局、野球の練習を再開したのは、ゴールデンウィークも近づいた4月の後半だった。もう一度野球をやろうという気持ちになるには、それだけの時間が必要だった。

 熊谷さん一家が現在暮らしているのは、高田第一中学のグラウンドに建てられた仮設住宅だ。「ここは息子の野球部が練習をしていた場所です。息子たちの野球をやる環境を奪って暮らしているということを考えると複雑ですね」仮設住宅が優先されるべきものであることは当然わかっている。しかし、それを引き換えにして、子供たちに我慢をさせているという事実。“子供の夢の上で暮らしている”ということがやりきれないと言った。仮設住宅建設工事が始まる前日、最後の練習を終えた息子さんを写したケータイ画像を見せてくれた。陽の落ちかかったグラウンドに立つ少年の姿。ここで野球をやるの

は最後ということを感じて、ちょっと寂しそうな顔をしていた。熊谷さんは息子さんの試合はすべて写真、ビデオに収めてきたが、それらのすべてを失い、今手元あるのは、震災後に写したものだけだ。それらは楽しい思い出ではなく、この悲しい記憶を留めておこうという思い。震災後、写真の持つ意味も変わった。

熊谷さん仮設住宅前.JPG
(写真:高田一中のグラウンドに建てられた仮設住宅の前で撮影。熊谷栄規さんは、奥さん、二人の息子さんとこの仮設住宅で暮らしている。)

これから訪れる沿岸スポーツの危機

 地震の余波は、さらに広がっていく。熊谷さんの中学3年の息子さんが所属する高田一中野球部は、昨年秋に行われた東北少年軟式野球新人大会岩手県予選でも準優勝を果たした強豪チーム。そのチームが最後の大会ではあっさりと敗退してしまう。練習不足を言い訳にはしないが、チームの主力選手が消えたことは大きな痛手になった。「守りの要の選手が転校していった。うちは守りきって勝ってきたチームだったので、いなくなったことは響きましたね。代わりにポジションに入った選手がよくがんばってくれたのですが…」小6の息子さんが所属する高田野球スポーツ少年団も同様だ。三陸学童軟式野球県大会初戦で序盤に大量リードするものの、最後には追いつかれ逆転負けを喫した。「1番のリードオフマンが親を亡くし、さよならの挨拶をする間もなく町を離れていった」陸前高田市で使えるグラウンドは今二つしかなくなってしまった。練習環境がなくなり、町を離れざるを得ない事情もある。このままの状態が続けば、陸前高田だけでなく、沿岸の地域のスポーツはレベルダウンしていくだろう。「子供の3年と大人の3年はわけが違う。中学の3年間、高校の3年間。その時間は待ってくれないんです」熊谷さん自身、高校3年間を盛岡工業高校でバスケットボールに打ち込んだ。純粋にボールを追いかけた日々を“あっつい時間”と表現した。そして今ここにいる子供たちのために“あっつい時間”を与えてほしいと願う。「物事に優先順位があるのはわかっている。ただ、“仮設住宅”の後は“仮設グラウンド”が欲しい。幸いにして陸前高田には平地が多い。そして、何かあった時にはすぐに山に避難できる場所もある。ぜひ検討してもらいたい」そう言葉に力を込めた。

DSC_2008.jpg

DSC_2052.jpg
(写真:前沢中野球部父母会の声掛けで行われた招待試合。この試合が、高田一中の震災以降、初めての試合となった。送迎と昼食も用意された練習試合は本当にありがたいものだった。)

子供の声に励まされ、子供の姿に学ぶ

 震災後、子供たちの元気に励まされていると言う。「子供たちがなんでこんなに元気で笑っているんだろうと思うことが何度もありました」そしてその声に背中を押されている。「子供たちは1000年に一度の津波を乗り越えようとしている。大人たちが1000年に一度の復興を子供たちに見せるのも教育になるんではないかと思う」町を離れることも考えた時期もあった。そしてこれからの暮らしの不安も消えていない。しかし熊谷さんはこの町に留まり続けることを選んだ。陸前高田の町が本当の復興を遂げるには時間がかかるだろう。それは10年後、あるいは20年後かもしれない。そして断言できるのは、復興を支えていく主役になるのは、この町に留まった大人たちと、その背中を見て育つ子供たちだ。

 熊谷さんにこんな質問を投げかけてみた。震災後、子供たちに変わったことはあったのか?その答えはインタビューの翌日、メールで返ってきた。「一晩考えました。自分なりの答えは『グラウンド上では何も変わっていない』このような状況になっても練習が始まれば、走って打って投げて、一生懸命です。ナイスプレーすれば笑顔だし、公園だろうがどこだろうが、キャッチボールが始まればニコニコしながらやってます。震災前と同じです。変わっていません。『変わらないことの凄さ』を子供達から学びました」人間はそんなに弱いものではないのだ。

DSC_2110.jpg
(写真:久しぶりの試合に選手たちだけでなく、指導者、保護者にも笑顔が浮かぶ。)

DSC_2033.jpg
(写真:被災したことにより、チームの中心選手が町を離れて行った。野球をできるうれしさと仲間を失った悲しみ。両方を抱えながら、少年たちは野球に打ち込んでいた。)

2011年、いつもと違う夏

IMG_6090.jpg
(写真:陸前高田の中心部からは、多くの建物が失われたままだ。賑わいが消えた町は、静けさに包まれている。)

 熊谷さんのお店があった場所へ移動して撮影を行った。コンクリートの土台だけが残り、そこにあったお店を思い起こさせる。このインタビューを行ったのは、7月30日。いつもの年なら、海水浴客でごった返し、活気に包まれていた町。しかし、何もなくなった町に人影はない。「海水浴の人が来て、祭りがあって、そしてお盆。今が一番活気のある時期。陸前高田はスポーツ合宿も盛んでしてね。野球、ラグビー、サッカーとか、いろいろなところから人が来て賑やかになるんです。だけど今は何もなくなっちゃったからね」熊谷さんは在りし日の町の風景を思い浮かべながらも、厳しい現実から目を背けない。1000年に一度の復興を成し遂げるために、多くの人と力を合わせて、熊谷さんは一歩一歩進んでいく。

(取材/菊地健二)


After3.11 ポスタープロジェクト

沿岸アスリートの夢をつなぐために、ポスターのご購入をお願いいたします。

スポーツマガジン・スタンダードでは、津波の影響でグラウンドが使えなくなった学校を支援するためのポスタープロジェクトを行っています。このポスターは3枚セット1500円となっており、そのうちの1000円を競技団体に寄付させていただきます。ぜひご購入のほど、よろしくお願いいたします。

申し込みページはこちら

8Dw93C782CC82B288C493E02.gif
フォト_黒.png
93C78ED283A839383P815B83g2.gif