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文芸部IWATE

【小説】夜が明ける魔法

第36回全国高等学校文芸コンクール小説部門
最優秀賞・文部科学大臣賞

【小説】夜が明ける魔法

岩手県立盛岡第三高校 三浦 麻名

 永遠に夜が明けない気がしていた。
 雪の感触を足裏で感じながら歩く。空気はひどく冷たくて、爪先で弾けばキンと音がするようだった。上空には、細い月が頼りなげに、雲の間から見え隠れしている。この様子なら、いつ雪が降りだしてもおかしくない。
 月の光を反射して、腕時計の針の銀色が闇に浮かび上がる。夜明け前の五時だった。
 ため息は白い靄となって、どこまでも広がった。誰もいない。闇には果てがない。数時間後にはちゃんと朝日が昇って来るなんて、到底思えない暗さだった。仕方がないか。冬の東北では、朝七時になるまで日は昇ってこない。六時にきちんと目を覚ましたとしても、窓の外はまだ夜中かと見まがうほどの暗さだ。もっとも最近の私には、朝日を拝む時間なんてほとんどないようなものだった。
 私は、朝に起きられなくなっていたのだった。四日前から、朝の九時に寝て、昼の三時に目を覚ます生活を繰り返している。いわゆる昼夜逆転の生活ってやつだ。原因は、そう、お勉強。
 お兄ちゃんは私立の大学に行った。東京でやりたいことがあるんだって言って、田舎のうちを飛び出していった。飛び出したと言っても、実際には、何回もの家族会議を経て決定されたことだけれど。
 うちは家族仲が良くて、食べるものにも困らない幸せな家庭だったけれど、お兄ちゃんの大学事件については少し揉めた。ごく一般的な収入のうちにとって、お兄ちゃんの東京行きには結構大変な出費と覚悟とが必要だったのだ。お母さんは、「お兄ちゃんが東京の私立に行くなら、杏奈には、東京に出るのと、私立の大学に行くのは諦めてもらわなければならない」と言って反対していた。私には地元を離れたいという願望はなかった。お兄ちゃんの好きにして欲しかった。お母さんもお父さんも、そして何よりお兄ちゃんが申し訳なさそうにしていたけれど、私はいいよ、大丈夫、ちゃんと地元の国公立に入るからと言った。
 だから、私は何が何でも、国公立の大学に受からなければいけないんだ。
 お兄ちゃんの東京行きが決まった時点で、私には二つの道が残されていた。私の家から通えそうな国公立大学は二つ。そのうち一つは福祉や教育に特化した学校で、私はあんまり興味が沸かなかった。もう一方の大学だけれど、こちらは新しくさっぱりとした雰囲気で、私の好みによく合っている気がした。でも少々、いや実はけっこう、私の学力よりレベルが高すぎるのだけが問題だった。
 もともと、私の両親は共働き。お父さんは単身赴任中でおらず、お母さんは昼過ぎに出勤して夜遅く帰る。お母さんは仕事に出る日数を増やすようになり、そのお金で私は塾に行き始めた。一浪するより金銭的にはその方がマシ、というわけだ。逆を言えば、浪人するとこの塾代は無駄な出費になってしまうのだけれど。
 長時間勉強させることで知られる、有名進学塾の授業について行くのは一苦労だった。いつ行っても、建物の前に「効率徹底」「高二の冬が勝負」と謳う幟がうるさく風にはためいていた。その音はまるで私の心に鞭を打ってくるかのよう。私はいつも早足で入口のステップを上った。
 世間は今、冬休み。お正月が明けて、お父さんとお兄ちゃんがそれぞれの持ち場に帰っていっても、私はひたすら勉強していた。次の試験で結果が出なければ、そもそも第一志望を目指させてもらえないかもしれない。塾で授業がない日も自習して、夜は宿題と塾の授業の予習。普段慣れないことをすると脳みそがパンクする。何かが狂ってしまったようだった。具体的にいえば、どうしても朝に起きられなくなったということ。
 完全に昼夜逆転してしまってから四日目。正直、焦る。もう数日経てば塾では冬期講習が始まる。それまでにはどうにか朝起きられるようにならなくちゃ。勉強もしなければいけない。様々な焦りは渦を巻いて、自然と氷を踏む足音がせわしなくなる。無駄、無駄、無駄。そう、本来はこんな散歩なんて時間の無駄。仕方なく歩いているのは、お母さんに泣き付かれたからだ。
 就寝時間が徐々に明け方にずれ始めた冬休みの入り、お母さんは娘の身を心配して、『東洋式安眠法』だの『羊を数えるのはもう古い! 次世代の睡眠科学』だの、睡眠に関する本を買い漁ってくるようになった。そして私にアドバイスを浴びせる。
「朝日に当たるのがいいらしいわよ。あんた、朝になったらまずはカーテン開けて外に出た方がいいわよ」
「はいはい」
「運動が及ぼす睡眠への好ましい影響……せめて塾にはバスをやめて歩いてくのはどう?」
 分かったってば、と、私は適当にあしらっていた。今思えばもう少しちゃんと聞いておくべきだったと思う。最近は朝日を浴びようにも起きたらもう夕方だし、散歩しようにもこんな時間帯では寒くて仕方ない。今だって、お母さんにノルマを課されなければこんな朝方に歩いたりはしていない。昨日の朝七時、私がのそのそと眠る準備を整えている一方、起き出してきたお母さんはこう言った。
「明日、もちろんお母さんにとっての明日よ、までに外に出て散歩してくるようあんたに命じる。証拠に何か明日の食材を買ってくること」
 突き出された買い物袋を、私は仕方がなしに受け取ったのだった。
 夕方のうちに行けばよかったのに、案の定こんな時間になってしまった。お母さんが起きてくるまであと約二時間。たぶんこの近くに、二十四時間営業のコンビニがあったはずだ。そこで何か適当に見繕って、早いとこ家に帰ろう。私はもつれる足をさらに動かして、先を急いだ。

 

 コンビニはなかなか見えてこなかった。おかしいな。もしかして曲がる角を一つ間違えたのかもしれない。周囲の暗さも相まって、見覚えのない道に誘い込まれてしまったようだ。スマホで検索を、と手袋をはずしてポケットに突っ込むついでに中を探ってみたが、家の充電器につないだままだった。うう、こういう時に限って使えない。知らない場所で見上げる空はどこかよそよそしい。唯一知った顔である月さえ雲に隠れて知らんぷりだ。
 一縷の望みをかけて、地図や標識のような手掛かりがないか、道沿いの塀をしらみつぶしに見て歩く。暗闇に沈んだ景色の中、何かが明るくちらついたような気がして、足を止める。あったあった、塀に白く輝く張り紙が一つだけ。
 このさき、朝市です。
 ペンで無造作に書いた文字。その下にある、ひたすら真っすぐに線を書いた矢印。
 はて、こんなところで朝市なんてやっていただろうか。地面に目を向けると、確かにそちらに向かうにつれてたくさんの足跡が集まり、果ての角に吸い込まれていっているのが見えた。その時ふっと雲が途切れて、無数の足跡が雪の中できらきらと輝きだした。
 いってみようか。そんな気持ちになった。どうせどこかで買い物をしなくてはならない。朝市なら買い物にはうってつけだ。
 曲がり角へ一歩進むごとに喧騒に包み込まれてゆく。うわ、なんだ。私は目を見張った。
 うすい靄の中に、小さな屋根たちが浮かび上がった。もうもうと煙を吹く煙突。頭にやかんを乗せたストーブの炎はめらめらと燃え、鍋からは湯気があふれ出している。様々な匂いが風にのって鼻腔をくすぐる。漂うこのかぐわしい香りは出汁の匂いだろうか。そして人、また人。屋根の下で何か物を売る人、手提げ袋を手にした人、言葉を交わして笑い合う人。さっきまでの街の静けさはどこへいったのか。人々の言葉と興奮が醸し出される熱気となって、まるごと私に迫ってきた。
 夜明け前だというのに、こんなににぎやかな場所があったなんて。圧倒されて立ちつくしている私の横を、小さなつむじ風がすり抜けた。
「うわっ、きゅうに立ちどまるなよ、あぶないなあ!」
「わっ、ご、ごめんなさい!」
 反射的に謝ってから、私は、目の前に立ちふさがった小さな影をまじまじと見つめた。
 男の子が仁王立ちしていた。六、七歳くらいだろうか。短く刈った髪がぴんぴんと立っていて、いかにも近所の悪ガキという感じだ。への字に結んでいたその口角が、にっ、とつり上がる。
「あれ、ねーちゃん、ひとり? さびしい大人だね」
 余計なお世話だ。しかし私も高校二年生。小学生から多少不躾な言葉を投げつけられても、寛大に対応してやれる余裕がある。私はにっこりと営業スマイルを顔に張り付け、取り急ぎ「優しげなお姉さん」らしい顔を作った。
「そうね、ひとりだねー。でもお姉ちゃんは、別にさみしくなんか……って、こら! それ私の!」
 少年は、片手に持った青色の手袋をひらひらと意地悪く振って見せてきた。慌ててポケットを探ると、手袋は片方しか入っていなかった。さっきスマホを使おうと思ってはずしたばっかりに。
「おとしもの、かえしてほしかったらついてこいよーだ」
 待ちなさいってば、と叫んだときには、少年の姿は人々の波の間に消えようとしていた。少年はなかなかすばしっこかった。しかも人と人との間をすり抜けるのが上手い。当たり前か、少年だもの。私の方はといえば、ろくに運動をしていないせいですぐに体が悲鳴を上げる。関節が軋む音がするようだ。その差は一センチも縮まないどころか、どんどん引き離されているような気がする。
 走る私の目に映る通りは、めまぐるしくその装いを変えた。野菜や花はもちろん、通りには焼き芋、コロッケ、おでんなどと書かれた看板が次々と立ち現れては消える。おいしい香りは荒く息を吸うごとに混じり合って、もう何が何だか分からない。
 突然、少年は一軒の店の前で立ち止まった。息も絶え絶えにやってくる私を見ながら、楽しげに待っている。
「はい、おつかれさま」
 手渡された手袋を、私は無言で受け取る。というか言葉を発せるほど息が整っていなかった。なんだったのよ、いったい。踵を返して帰ろうとすると、コートの裾をつかまれた。
「あーっ、まってよ、まだ帰らないでよ」
「あーやぁ、陸、なぬすたのぉ?」
 軒に垂れ下がった看板の向こうから、老婆の顔がのぞいていた。頭にかわいらしい黄色い花柄のバンダナを巻いている。
「はぁ、お寒う中よぐお出んすたごどぉ。わだすの孫が、またあだすたのすか? 失礼しぁんすた、おいしぇってくなんしぇ」
 申し訳なさそうに語る老婆の様子に、喉まで出かけた文句がすっと引っこんだ。柔らかく、独特の丸みのある言葉遣い。耳慣れない言葉ではあったが、話し手の誠意がにじみ出たような、不思議な穏やかさがあった。
「いや、あの、大丈夫です。急について来いって言われたので、驚きはしたんですけど」
 お気になさらず、と慌てて伝える。実を言うと彼女の言葉の半分も理解できたわけではなかったのだが、謝られていることは分かった。陸と呼ばれた少年が口をはさむ。
「ね、たまごやき食べてってよ! ぜったいうまいから!」
 改めて店の看板を見ると、一番上には大きく『手作り卵焼き』と書かれている。文字通りの看板メニューのようだ。
「そんだなっす、どうか食べてくなんしぇ。孫のご迷惑のおわびであんす」
 闇の中にぼんやりと光る、一切れの黄色が差し出された。
 夕食に当たる食事をとったのは深夜の三時くらい。お腹は減っていなかったはずだが、鬼ごっこしたり美味しそうな匂いに囲まれているせいで、どうしても食べたい、という気分になった。卵の潤んだ黄色が妙に美しく見えるのがその証拠だ。私は、楊枝に刺さったそれをそろそろと受け取った。
「じゃあ、いただきます」
 ぱくっ。一口でそれを食べてしまってから、後悔した。じゅわあ、と、あの一切れが抱えていたとは信じられないほどの出汁が、口の中に広がった。熱い。焼きたての幸福な温度が、胃の中におさまっていく。卵の味を邪魔しない優しい甘さが舌に残った。
「お、いしい」
 この感動をまだ味わっていたくてじっとしていたら、反応がだいぶ遅れた。本当においしいものには過剰なリアクションは必要ない。現に、私の言葉が本心から出たものだと分かったのだろう、陸はきらきらした目をこちらに向け、今までより数段明るい声音で言った。
「だろ! はなばーちゃんはまじょなんだぞ」
「魔女?」
うん、と自信たっぷりに陸がうなずく。
「だっておれが朝おきるまでに、おいしいたまごやきがたくさんできてるんだぜ! 見てないあいだに、何かまほうをつかってるにきまってるじゃん」
「魔法だなんて、そったな大層なものではながんす」
 ほっほっ、と朗らかに笑って魔女、いや、はなばーちゃんは言った。
 確かにこれは、魔法と言って差し支えない美味しさかもしれない。商品の棚をちらりとのぞいてみた。もうだいぶ売り切れてしまっているが、棚の上にはパック詰めされた卵焼きが何段も並んでいたのだろう。かなり多くの数を焼いているのが予想される。
「ほんとにおいしかったです。あの、お土産に一パック買ってもいいですか」
 私は改めてお礼を言い、卵焼きの購入を申し出た。はなばーちゃんは嬉しそうに三度も頷き、どうせなら焼きたてのを、と言って奥に引っ込んで行った。その背中に向かって陸が声をかける。
「ね、ばーちゃん。このねーちゃんは、おれとあそんでくれるんだってさ」
「そうとは言ってないけど」
 すかさず否定しておく。そういえば小学生のくせにおれなんて使うのか。生意気な。
「これ以上の長居はできないの。私は、勉強で忙しいんだから」
 そうだ、何事も早く、効率的にやらないと。最後は自分に言い聞かせるように言う。ちぇ、けちだなあと陸は不満げな表情を浮かべた。
 通りを振り返ると、大きな人の流れが見える。はなばーちゃんを待つ間、私はただ朝市の様子を眺めていた。そのうち一つの疑問が頭をもたげてくる。なぜだろう。朝市の風景は絶えず変化していて、人の流れも忙しないのに、この風景がどこかのどかなのは。ざわめきを前にしばし考えたけれど、答えは出ない。
 がさがさとものを動かす音と、お待たせしあんした、という声が聞こえて我に返った。はなばーちゃんは赤らんだしわしわの手で、卵焼きを包み込むように渡してくれた。仕事人の手だと思った。思わず目が引き付けられる。家事や水仕事をしてるときっとそういう手になるんだろう。
 ずっしりと重い卵焼きを胸に抱いて、ほくほくと笑いたくなった。さて、ノルマだった食材も入手できた。帰って勉強を、と歩き出そうとした時、はなばーちゃんに手え出して、と言われる。言われるがままに差し出すと、ずしん、とした衝撃があった。はなばーちゃんは私に、信じられないくらいどっさりと野菜を持たせて言った。
「みなさんにおまげしておりあんすが、今回は出血大サービスなっす。陸が喜びあんすから、ぜひまたおでってくなんせ」
 これ、賄賂だよぉ。そう言っていたずらっぽく笑ったその顔が陸のものと重なって、確かに孫と祖母の血のつながりを感じた。いたずらっ子のDNAは確かに引き継がれているらしい。
「よっしゃ! じゃあ明日もこの店にしゅーごーな!」
 陸はともかく、可愛らしいはなばーちゃんの頼みを無下にはできない。こうして約束を取り付けられてしまった私は、毎日この時間、朝市に通うことになった。

 

 今朝もまた、朝市に向かっていた。だがその足取りはとてつもなく重い。
 店に通うにつれて朝市のことも、陸のこともだいぶ分かってきた。相変わらず口のきき方が生意気な陸とは言い合いばかりしているけれど。朝市に通って二日目に、陸と交わしたのがこんな会話だ。
「そうだ、ねーちゃん、名前なんて言うの?」
そっけなく「杏奈」と答えると、
「あんなぁ? ずいぶんおしゃれな名前じゃん。見かけによらないね」
 かなり失礼な答えが返ってきた。忌々しい釣り目のせいで、しばしば不機嫌なのかと聞かれるのが私の悩みの種だった。きれいな外国人のお姉さんのもののようなこの名前に、どうにか見合う顔になれないものか。
「陸はいつもこんな朝早い時間から起きてるわけ? まだ小学生でしょう?」
 はなばーちゃんの家はこのすぐ近くにあり、休みの間だけ陸はそこに泊まりに来る。そしてはなばーちゃんを手伝って、呼び込みをしているというのが、本人の言。私の目には手伝っているというより、遊びまわっているというのが正しいように見える。
「はなばーちゃんがまほうをつかって、さいきょうのたまごやきを作る。そしてそれをせかいに広めるために、おれがいるってわけ」
 陸は生粋のおばあちゃんっ子のようだった。はなばーちゃんの言うことは素直に聞く。私に対してもその誠意をもって接してほしい。
 それにしても、朝の空気を吸うのが清々しいと思えたのは久しぶりだった。朝市の時間はそもそも短いし、私も決して長居はしなかったけれど、この場所は何だか心地よい。この日々がもう少しだけ続けばいいのに。しかし、そうも言っていられない事態は着実に近づいていたのだ。きっかけは、一本の電話だった。

 

 はい、はい、すみません。申し訳なさそうに謝るお母さんの声が、ドアの向こうから聞こえてくる。お母さんが受話器を置いた後、私はそっと部屋に入って、「どうだった?」と聞いた。お母さんはため息をつく。
「初日に休むと、授業について行くのが大変になりますよって言われたわ」
 私は、敵に狙われた亀みたいに首をひっこめた。塾の冬期講習が始まってしまったのだ。私の昼夜逆転生活はやっぱりまだ治らなくて、お母さんは数日間、塾に休みの連絡を入れ続けた。その度に委縮した声になるお母さんが気の毒になって、私はついに「明日は私が掛けるよ」と言ったのだった。
 翌日。とぅるるるる、という微妙に気の抜ける発信音の後、はいこちら○○塾です、と電話に出る声がした。うわ、私の苦手なノリセンの声だ。
 ノリセンことのりや先生は、堅物で有名な塾の先生。意見がぶつかってしまったが最後、馬鹿丁寧な口調で相手が生徒だろうと親だろうと論破される。よりによってこの先生に当たるなんて、運が悪い。
「今日もお休みの連絡ですか?」
 今日も、という部分に余計に圧力を感じる。はい、と答えた声が母のものより小さい。
「昨日まではお母さまの同意の上、ということが分かりましたから理由までは聞きませんでしたが、今日は違うのですね。杏奈さんの口から直接、理由を聞いてもよろしいでしょうか」
 昼夜逆転してしまって、と言いかけてやめた。この先生に、夜遅くまで勉強していて眠れなくなったと言って、信じてもらえるだろうか。ゲームのしすぎで昼夜逆転生活、などとニュースで特集されていたのが頭によぎる。だめだ、言いたくない。ノリセンのことだ。「スマホばかりいじってるからそうなるんだろう」などと説教されるに決まっている。
 受話器の向こうの不自然な間を訝しく思ったのだろう、私の返事を待つ間もなく、すでにノリセンは説教をはじめていた。
「まあ、冬は体調が崩れやすい時期ですからね。不調が長引くのもよくあることです。しかし、あなたたちの本番は冬。受験は一発勝負です。体調管理も日々の習慣から……」
受話器から淡々と流れ続けるノリセンの声。うう、もう分かったってば。叫びたいのをどうにか堪えて、私は延々と続く説教に耐えた。そして彼の最後の言葉が、私の胸を突き刺したのだ。
「あなたが立ち止まっている間に、何万人の高校生が勉強していると思っているんですか。無駄な時間があったら、とにかく追いつこうとしてください」
 無駄、か。すでに脆くなっていた何かが、ぷっつりと音を立てて切れた。

 

 ここまで歩いてくるのに三十分のタイムロス。野菜だって近所のスーパーで買えばいいのだから、やっぱり無駄だ。
最初に私の異変に気付いたのは、意外なことに陸の方だった。
「どーしたの? 今日いつもよりつり目じゃない?」
 こうして話している間にも三分のタイムロス。ここで普段なら私は「釣り目じゃないし!」などと言うところだったが、今日は何だかその気力も出なかった。
「ごめん、今日はもう帰る。ほら私、受験生になるし」
「帰るって、今来たばっかりじゃん!」
「時間は効率よく使わなきゃいけないから。無駄は減らさなきゃ」
 言ってしまってから、これでは陸と話している今の時間が無駄だと言っているも同然だと気がついて、後悔した。陸は黙りこくった。私の態度の豹変ぶりに、声も出なくなってしまったのだろうか。少し心配になって顔をのぞきこむと、彼は突然、つらつらとこんなことを言い出した。
「あんなってさあ、いい子ぶってるよね」
 はあ、と言いたかったけれどできなかった。今までで一番きつい言葉だ。こちらが黙っていると、さらにこんな言葉が続く。
「いい子ぶってるけどほんとは口がわるいし、こーりつがどうとか勉強がどうとか言ってるけど、あんまり楽しそうにみえないし」
 そして最後はうつむいて言った。
「なんか、ムリしてるってかんじがする」
私はいよいよ言葉を失った。これは、もしかして小学生に心配されているのだろうか。様子を店の中で聞いていたはなばーちゃんが顔を出す。
「んだねぇ。杏奈ちゃん、何か悩んでるように見えあんすなぁ」
 二対の誠実な目に見透かされて、私の心がひゅう、と膨らんで揺らいだのを感じた。たぶん今まで、ずっと息ができなかったのだ。空気が通らなくて苦しかったのだ。二人の視線は私の心に風穴を開けた。
 私は思わず、勉強しなきゃいけない理由、眠れなくなったことなどを、洗いざらい打ち明けてしまった。私がつっかえつっかえ話しても、はなばーちゃんは頷きながら聞いてくれた。今日来た時刻が朝市の終わりごろで良かった。こんなみっともない客が店の前を占領することにならなくて。
「そうでござんすか。それはてぇへん難儀なことでござんすなぁ」
「はい、でも、聞いてもらえてすっきりしました」
 と言ったら、初めて涙がぽろりとこぼれた。慌てて見えないように拭う。迷惑をかけてしまった。出口へと向かう道のりを歩いていると、いつものあの声が追いかけてきた。
「おーい、はなばーちゃんからでんごん! 明日朝の三時、この店のまえに来れたら来い、だって!」
 私は振り返って、手で大きな丸を作って見せた。顔を上げてみれば、夜明けはもうすぐそこにあった。

 

 翌日、言われたように店の前に立っていると、はなばーちゃんが花柄の黄色いバンダナにエプロンという、いつも通りの出で立ちでやってきた。通りにはまだ誰もいない。これが数時間後には活気にあふれた朝市になるのだから、まったく驚いてしまう。「いま、家で卵焼きの仕込みをしておりあんす。特別に見て欲すうのであんす、わだすの『魔法』を」
 通りには誰もいないというのに、はなばーちゃんは私の耳に顔をぐーっと近付けて囁いた。
「えっ、本当に良いんですか」
私もつられて抑えた声で囁き返した。彼女はにっこりとして頷く。はなばーちゃんの家は本当にすぐ近くにあった。住宅地の一角にあって、歩いて三分もしない。
 おじゃまします、と言って裏口から入る。こんな時間に人のうちに入るなんて、普段なら考えられない。台所はこっち、と案内されるがままに進んでいく。道中、穏やかな寝息が聞こえた。そうっとそちらに顔を向けると、そこにいたのは大の字になって眠る陸の姿だった。へーえ、寝顔はまだまだ子供だな。私は満足して首をひっこめた。
「はい、まんづ、これが魔女の衣装であんす」
 そう言って、はなばーちゃんは自分のものと同じ、花柄のバンダナと白いエプロンを貸してくれた。腕を通すと、ほのかに卵焼きの優しい出汁の香りがした。
「卵焼きは、こんたな風に、いっぺぇ出汁をへで作っていあんすのす」
 驚いたのは、その出汁の種類が五種類以上あったことだ。卵焼きは焼きたてを提供するためにその場で焼くものと、すぐ持って帰れるようにパック詰めしたものとを作る。ほかにもお惣菜などを売っており、それらの準備を朝三時前からやっているのだと言う。
「ほんでね、これが一番大事な魔法」
 私はつい身を乗り出した。はなばーちゃんは、慣れた手つきで塩、みりん、出汁を卵の中に入れ混ぜてゆく。それをきれいな四角のフライパンに流しこんだ。
「ゆっくり、じっくり、焼きあんすのすぅ。食べる人のごどをかんげぇながらね」
 しゅぼっ、と音を立てて火が息を吹いた。それは青い焔となってとろとろと溶けてゆく。
私は、それを静かに見守っていた。今、はなばーちゃんの秘密の隠し味を知っているのは私だけだ。ゆっくり、じっくり。言葉を反芻する。
 真心なんてこめても無意味だ。手作りなんて非効率的だ。立ち止まるなんて時間の無駄だ。私は、今までそう思っていたのではなかったか。いや、そう思おうとしていたのかもしれない。本当は、寄り道の方が好きだったのに、無理やり真っすぐな道を行くように、矯正していたのは自分自身だろう。
 そして気付いた。朝市にいる人はみんな、効率とか、儲けるための打算とかは端から頭にないんだ。誰かのために、また、自分自身が楽しむために市に立つ。だからのどかに感じるわけだ。
「さあ、どうぞ、おあげんせ」
 黄色の一切れが私に差し出される。私は、今度も一口でそれをほおばってしまった。卵焼きに閉じ込められた魔法を、一滴たりとも逃さないために。