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【小説】野良猫

【小説】野良猫

岩手県立一関第一高校 田中 巳里

 その窓の向こうにいた猫と、目が合った。

 我が家の居間の窓ほど景色が味気ないものもない。見えるのは隣の家の壁と、家同士の境界にそびえる塀のみ。おそらくこの家が建てられた時、隣家はまだ存在しなかったのだろう。当時は一体どんな風景が見えていたのだろう。気になるところだ。
 とは言え、夏の時期には換気が重要であり、例え隙間風程度しか期待できなくとも、今日のように網戸一枚になっている時もある。
 そしてそんな網戸一枚を隔てて、私は塀を歩く猫と目が合った。
 白猫である。茶色の瞳で、よく見る猫たちと比べて細身な胴をしていると思った。
 アイスでも食べようかと台所に向かっていたら、とんだタイミングである。驚いてこちらに威嚇でもしてくるのではないか。逆上して網戸に飛び掛かるのではないか。思わずそんな心配をしたが、猫はぴくりとも動かない。私をじっと見つめているだけだ。
 大人しくしていてくれるなら安心できるが、そうじっと見つめられても妙に気まずい。いや、猫も猫で突然目の前に現れた私のことを警戒しているのだろう。
 いつまでも見つめ合い続けるわけにもいかず、私はギリギリまで猫から目を離さぬまま、居間から台所へと向かった。冷蔵庫を開けて、目的のアイスを手にする。
 部屋に戻るには、また居間を通る必要がある。もういなくなっているかなと思ったが、予想は外れ白猫は私を出迎えた。
 刺激しないようそそくさと通り過ぎようとする。猫からの視線につられ、私も猫に再び目をやったが、そこで気づく。
 猫は首輪をしていなかった。いや、そんなことはどうでもいい。それどころではなく、白猫は顎の下から首元にかけてその毛が抜け落ちていた。
 言ってしまえば、その部分だけはげていた。
 目だけ釘づけになりながら、しかし足は止めることなく、そのまま私は居間を出た。
 ふと、取り出してきたアイスが視界の端に映った。アイスバー、グレープフルーツ味。カラーリングがさっきの猫の地肌そっくりだなとまで考えて、私は今更のように「うわ」と、さっきは押し殺した声を漏らした。

 

 あの猫、病気なのだろうか。
 机で頬杖をつきながら、自然とそんなことを考えていた。向かいの家が猫を何匹か飼っていたはずだ。しかし白猫は首輪もしていない以上、野良猫である可能性が高い。
 思い出すのはあの茶色い目だった。昔持っていたぬいぐるみに似ていた。反応らしい反応を見ていないからそう感じるのだろうか。
 アイスは口の中で溶け切り、残った棒はゴミ箱に捨てる。両手がようやく自由になった。私は椅子から立ち上がって部屋の中を移動し、そして部屋の窓を開ける。
 予想に反して、まだ猫は去っていなかった。
 塀の端から端へと移動しながら、両壁に挟まれた一本道をきょろきょろと見回し続けている。端に辿り着くと、わざわざ百八十度方向転換して戻ってくる。細い塀の上で器用なものだ。
ぎらつく日光の下に行きたくないのだろうか。あるいは、塀を降りる気力さえないのか。
 痩せた胴体、薄桃色が晒された首元。もう長くはないのだろうか。そんなことを考えていた時だった。
 猫が顔を上げ、私を見た。
 冷静に見ると、白猫はとても可愛かった。多くの人が虜にされる動物なのだから、当然と言えば当然だ。しかしそれだけではない。なんだか白猫のその顔は、表情は、ぬいぐるみや人形などと通じる可愛さがあった。人に愛でられるために作られたそれらと生き物である猫が似ているというのは、とても不思議に思えた。
 なるほど分かった。この猫は私に餌をねだっているのだ。だから私を見つめ続ける。そんな可愛らしい表情をする。おそらく、このおねだりは私にだけやっているわけではないだろう。なんというか、手慣れている。
 さあどうするか。今からあの冷蔵庫を漁るのは別に構わない。スマホで猫はどんなものが食べられるのか、調べるのもいいだろう。だが、野良猫に餌付けをするというのは、果たしてやっていいことなのか。毎日餌を求めに現れたり、なんなら仲間まで連れてくるんじゃないのか。そんな話を、ご近所トラブルの一つとして見たことがある。
 私が悩んでいる気配でも察してか、白猫はにゃあ、と短く鳴いた。初めて鳴いた。想像していたよりも大きな鳴き声だった。ああ、お前生きてるんだな。そしてしたたかだ。
私は笑った。
 その鳴き声は、とても可愛かった。